邪道
今日の糸井重里さんのツイート。
ぼくも「自分も含めて」まったくそう思う。RT @fumiken: " もちろん自分も含めての話なんですけど、やっぱりみんな「わかったようなこと」を言いたがるじゃないですか。" ⇒|わかったようなことを|古賀史健|note(ノート) https://t.co/4pyEex3KbK
— 糸井 重里 (@itoi_shigesato) 2015, 5月 8
このツイートから古賀史健さんという方のnoteを見てみたのだけれど、
そこからさらに引用させてもらう。
なるほど、そういう使い方もあるのか。
以前にある方から、SNS の運用について「自分とまったく主義主張の違うひともフォローしておくと、世のなか全体の動きを把握するのに便利だよ」とアドバイスいただいたときの感想です。たしかにそうだ、一理ある。せっかくやるんだ、閉じた空間にしちゃいけない。そう思ったぼくは、自分とはぜんぜん異なる思想信条を持っていそうなひともまんべんなくフォローし、なるほどみんなこんなふうに考えてるのか、と SNS ライフを満喫してきました。
ところが、やっぱり震災以降くらいから、かなあ。少しずつ「あまりにも自分と違うひと」のことばに触れるのがつらくなってきたんです。罵詈雑言でなくとも、触れるだけで疲れることばって、ありますよね。
この文章を読んだ時、心のなかで何回も頷いた。
僕もかつては引用した通りの使い方でツイッターをしていたからだ。理由も似たようなものだった。とにかく全方位をカバーしたくて、どこかに偏ることなく中立を行き、様々な意見を踏まえた上で自分で判断したいと思ったから。
けれど、結局疲れちゃってツイッターをやめてしまった。ツイッターは好きだしいろんなひとのツイートが読めること自体はとても楽しいのだけれど、自分と正反対の意見を持つ人のツイートの中には自分(僕)を否定するツイートも多々あるので結構ツラい。しかも、つぶやいた本人に僕を否定しようというような悪意は当然無いので余計ツラい。悪意があるのなら「ムカつくな〜」なんて言って無視すればいいけれど、悪意が無いとなると純粋に否定されていることになるから。そもそもそれでツラいと思ってしまうようなメンタルの持ち主なら、全方位カバーするようなやり方は確実に合っていないのでやめておけ、と今の自分なら言える。そりゃあ疲れるのも当然である。
そんなこんなで一時期ツイッターをしない期間があって、でも結局現在の通り復活した。
ツイッターを再開しようと思った時、今度はやり方を変えようと思った。
極端だけれど今度は「嫌なものは見ない」、言い換えれば「好きなものだけを見る」というやり方にしてみることにした。
とにかく好きな人たちだけをフォロー。特定の人のツイートを見て疲れるようになったらミュート、もしくはリムーブ。さらに目的別に複数のアカウントを使い分けることも試してみた。
結果的に、その方法が合っていたようで、ツイッターで疲れることはほとんど無くなった。
そもそも疲れるまでツイッターをやってたのがおかしかったのかもしれない。
自分に都合のいい情報しか目にしないのはとんでもない。せっかく出来たつながりでも気に食わなければ一瞬で断ち切るような冷たさなど持ちたくない。複数のアカウントを使い分けるのは、何かを隠しているようでハッキリしないのが嫌。
これはかつて僕が思っていたことで、今のツイッターとの付き合い方は昔の僕から言わせれば邪道だった。
けど結局、邪道だと思っていたことのほうが自分に合っていた。
最近そんなことばかりだ。
歩行者が多い道や、一般的に正義とされる道、理想と信じる道を歩いてきて、ようやく「あれ、この道じゃないな?」と気付いた時は既に20代も半ば。